大鑑禅師示寂塔

 大鑑禅師と諡号された清拙正澄は、1326年(嘉暦元年)執権北条高時に招かれて宋から来日し、京・鎌倉五山の諸寺住職を歴任した高僧である。
土肥実平の子孫である土肥兵衛入道(良平)の熱心な招請により、宋からの愛弟子の雲林清深を成願寺に派遣した。
※「城願寺」は鎌倉時代から室町時代初めまで「成願寺」と書かれていた。
 雲林清深は成願寺を臨済宗に改めて再興し、中興開山と呼ばれた。1339年(暦応二年)正月17日に66歳で京都の建仁寺で亡くなった恩師の大鑑禅師清拙成澄の遺骨を分けてもらい、清深が示寂石塔(高僧の墓石塔)を成願寺内に建てた。さらに東陵永璵が「大鑑禅師塔銘文」を作り、石室善玖が板に書いてこの石塔脇に立てたことが有名になり、高僧の参拝が続いた。
 1375年(永和元年)3月4日、鎌倉公方の足利基氏に招かれ、鎌倉諸寺の充実に努めた身体疲労を癒した義堂周信(空華上人)が、熱海帰りにこの成願寺に立寄り、大鑑禅師石塔と銘文の立板に感動して香を焚き三拝した。大旦那の土肥兵衛入道と方丈で茶を喫し、さらに入道の自邸に招かれて茶を飲み語り合ったと『空華老師日用工夫略集』に記した。これによると、当日の成願寺は、宋人の雲林清深住職が不在で、子供二人の僧が応対したと書かれている。
※義堂周信は、帰京後、三代将軍足利義満の信任を得て相国寺の建設を勧 め、建仁寺・南禅寺・等持寺住職を務めた高僧である。
※義堂周信はこの『略集』で、「大鑑禅師示寂塔は石幢塔である」と書いて いて、大鑑禅師が住職として、そこで亡くなった建仁寺の禅居庵にある大鑑禅師示寂塔は、写真のように六角形石柱の上に卵形石を載せた石幢塔形式である。残念ながら現在の城願寺には、この石塔は失われていて、この石碑は示寂塔への案内標石と考えられる。今後、示寂塔の発見が期待される。 

左:京都建仁寺禅居庵の大鑑禅師石塔
右:飯田開善寺の大鑑禅師像