西国三十三観音碑





 江戸幕末期は、外国船来訪や、大地震や大津波に、浅間山噴火による飢饉で多くの人が死に、そのような中で尊皇攘夷の争乱がおこり、医学の専門知識が無かった1822年(文政5年)と1852年(安政5年)には、「三日ころり(コレラ)」の大流行で、さらに多くの人命が失われた。
 全国の寺社では病人や困窮者に飲食物などの供物を施す「施餓鬼」「喜捨」をおこなった。ここ城願寺の七騎堂周辺には、観音像を線彫りした34柱の石碑群が残っており、城願寺での施餓鬼のために1858年(安政5年)正月に建てられたことがわかる。吉浜村の老母が、私財を出して観音像を彫らせるという話が広まり、城願寺の亮鑒禅師の呼びかけで、近隣の村の名主・組頭層が積極的に喜捨の精神を発揮して石碑の造作が進み、亡くなった者への供養と、西国浄土から迎えに来る三十三観音に、近隣の民衆が御詠歌を唱えながら次々と参拝して、村々では一人も死者を出さずにコレラ流行を乗り切ったと伝わる。近年の「新型コロナウイルス」感染症が世界的に流行したことは記憶に新しいが、そのような時には、治世家や長老たちが 住民に安心を与える場を作り、相互扶助の精神を示すことが必要だが、先人の善政の良い歴史見本がこの石碑群である。